「「中世は節操がなさ過ぎて書くのがつらい」って趣旨のことを残した小説家がいましたが、個人的には好きか嫌いかは別として中世は興味深い時代です。その時代の幕引きをして、戦国時代の扉を開けることになる伊勢新九郎。司馬遼太郎の『箱根の坂』が書かれたときからは研究も進んでいるでしょうから、どんな新しい北条早雲像が出来上がるのか楽しみです。」
「下克上、という言葉から浮かぶ戦国武将を挙げるとしたら、やはり長井新九郎則秀こと斎藤道三であり、伊勢新九郎こと北條早雲が双璧として並び立ちそうだ。斎藤道三は通説では油売りとして各地を渡り歩く中で武家に取り入り家臣となり、その家をのっとっては守護大名の土岐家を追い出し、美濃国を手中に収めた。北条早雲も通説として一介の素浪人から成り上がり、小田原城を奪って5代に及ぶ後北条家の礎となった。名のない風来坊でも才覚があれば、一国一城の主にまで成り上がれる下克上ドリームの体現者として、斎藤道三や北條早雲は読み物の中で語られ持ち上げられては信奉を集めた。誰であっても頑張れば何者にもなれるという夢の容れ物として、時代を超えて憧れを集めてきた。逆に言うならそうした憧れを喚起するために、斎藤道三や北条早雲は油売りや素浪人からの成り上がりでなくてはならなかった。けれども昨今、歴史の研究が進んで、斎藤道三も北条早雲も講談のような物語の上に綴られた下克上のヒーローではなかったのではないかといった意見が出ている。虚飾が剥がれ落ちて魅力が下がり、憧れの対象にはならなくなる......かというとそれは逆。研究が進めば進むほど、その人となりへの興味が高まり、具体的にどうやって史実として厳然としてそびえる一国一城の主となり得たのかを知りたくなる。空想上のヒーローが、超常的な力で敵をあっさり倒す物語にも人は憧れるけれど、現実の成功者が、緻密な計画と剛胆な行動で成功をつかみ取る物語にも人は大いにそそられるのだ。その意味で、ゆうきさまみが伊勢新九郎の方、つまりは後に「北条早雲」と呼ばれる男を子供の頃から追いかけて描いた「新九郎、奔る!1」(小学館、630円)にも、史実に沿って描かれる、地続きのヒーロー像を見て楽しむことができるだろう。とはいえ、そこは漫画でありなおかつゆうきまさみ作品だけあって、リアルでシリアスな枷にとらわれ教科書でも読んでいるような気にさせられることはない。基本としての史実を抑えて登場人物たちを配置しつつ、ところどころにメタ的な視点であり、コミカルな性格を添えて室町という時代に生きた人々への親しみを惹起する。例えば主人公とも言える伊勢千代丸。後に新九郎と呼ばれるようになり、そして北条早雲となる少年が京都の屋敷で姉にいじられ、伯父で京都伊勢家当主にして室町幕府政所執事を務める伊勢伊勢守貞親にからかわれながらも、伯父や父たちが幕府の中で権力争いを繰り広げ、時に戦の覚悟を固めつつ一族の繁栄のために奔走する姿をその目に見せて、武士の世界で生きていく大変さを感じさせる。そんな新九郎を通して、読者も武士の家に生まれたものが、係累を気にし、軍事や政治に気を遣って生きていくことが、あの時代には必要だったことを知る。そして同時に、一介の素浪人どころか伊勢新九郎は、室町幕府でも権力者だった政所執事の伊勢貞親を伯父に持つ家に生まれ、姉は後に今川家に嫁いで北川殿と呼ばれ、孫に今川義元を持つに至った家系だったことも知る。ポッと出が一気に栄達した訳ではなかったのだ。伊勢貞親にしても、その娘婿で新九郎や北川殿父親にあたる伊勢備前守盛定にしても、幕府にあって将軍を支えようとして奔走する。敵対する勢力を謀反の疑いがあると言って排除しようとしてひっくり返されるけれど、そこで切腹して散ろうとはせず、一族を守るために京都を出奔して隠棲する。華々しさとは無縁で潔くもない政治と軍事のリアルが、漫画ならではの人間味を帯びた絵で描かれ、その人たちへの関心を誘う。後に応仁の乱で伊勢氏が参加した東軍にとっては敵となる西軍の指揮官、山名宗全も表情豊かな入道として登場しては、こちらは東軍の指揮官として山名宗全とぶつかる細川勝元の嫁で、山名宗全にとっては養女のところを訪ね、そこにいた新九郎と出会って剛胆な雰囲気を振りまく。それが史実かは不明ながらも同時代、同じ場所にいたのならあったかもしれないエピソードを通して、山名宗全という希代の武将への関心を高める。細川勝元といい山名宗全といい、歴史の上にその名を残し、応仁の乱という戦国時代へと連なる一大事件を引き起こす人物たちであっても、織田信長であるとか武田信玄上杉謙信毛利元就豊臣秀吉といった戦国武将に比べて印象として遠く、興味を抱きづらい。それが応仁の乱という事象への興味を減殺している節がある。「新九郎、奔る!」はそうした物語として好まれにくい歴史の事象を漫画で描き、関係者たちをキャラクターとして描いてグッと引き寄せる。第2巻ではいっそう深く、そして激しい応仁の乱の描写がありそうで、そこでは大勢が死んでいく姿も描かれそう。平安時代の羅生門に鬼が出て人を襲っていたようなおどろおどろしさを持っているのだろうか、戦死者が山と積まれて死臭と血の臭いが漂うような陰惨さに彩られているのだろうかといった興味も浮かぶうけれど、そこはリアルでシリアスであっても明るくて楽しい描写を混ぜ込み、目を背けさせないゆうきまさみのこと。気楽に触れて知らず応仁の乱について深く知ることができるだろうと思いたい。それですら伊勢新九郎の、そして北条早雲の物語はまだ端緒についたばかり。第1巻の冒頭、39歳となった室町殿奉公衆の伊勢新九郎が、足利茶々丸を討って歴史に名を馳せ、そして小田原の地に居城を定めて100年に及ぶ後北条五代の祖となるまでには相当な時間がある。その間、知られていないことも多くあるだろう伊勢新九郎の物語を、どういった史料から類推して描きつつ、どういった破天荒さを漫画として乗せて楽しませてくれるのか。連載の行方を見極めたい。 」